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商店街の繁栄を支え、貴重な国宝を守り抜いた
大須観音貫主の『地元を愛する心』と修行の日々

大須観音 貫主(かんす):
岡部快圓(かいえん)さん

大須の西端に移転して400年余り、
門前町の日常の中で貴重な蔵書を守り続ける

ベトナム巡礼中の船旅。普段はお寺の仕事を手伝い、内助の功を尽くして支えてくださる奥様にとっても、よい気分転換となっただろう。それにしても、羨ましいほど睦まじい夫婦仲である。
大僧正の正装である緋衣を召した岡部快圓さん。僧侶の衣の色は階級によって決められていて、修行僧は黒からはじまり、萌黄色、40歳になったら紫になり、功績があった僧のみがなる大僧正は緋色(黄色がかった濃い赤色)の衣を身に着けるという。

名古屋市中区大須には、およそ1000軒もの商店や施設が軒を連ね賑わう巨大な「大須商店街」がある。古くから門前町として栄えたその地域は江戸情緒を随所に残し、西端で大須の街を見守る「大須観音」の参道へとつながっている。

大須という地名の由来ともなっている大須観音は、東京都台東区の「浅草観音」、三重県津市の「津観音」と並び「日本三大観音」のひとつとされている。正式には「北野山真福寺寶生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)」という寺号を持つ真言宗の寺院だ。

もともとは鎌倉時代の末期に尾張国長岡庄大須郷(今の岐阜県羽島市大須)に開かれ、その地名から「大須真福寺」「大須寶生院」などと呼ばれていた。それから300年ほど後の慶長17(1612)年、徳川家康が尾張地域の新たな都市として名古屋を建設した際、現在地に大須観音を移転させた。それ以降、この地で400年余りの歴史を刻む。

この由緒ある大須観音の第55代貫主(かんす:住職のこと)をつとめるのが、岡部快圓(かいえん)さん(73歳)。大須の中心的な寺院の長としての日々の生活やお考え、地域の人たちとの関係などについて、岡部さんにお話を伺った。

大須観音の丹塗りが鮮やかな本堂。入り口には「観世音」と書かれた大提灯が見える。空襲で焼失し、戦後再建された。日本三大観音に名を連ねるにふさわしい威容である。

―― 大須観音は地名の由来ともなっている象徴的なお寺なんですね。400年以上もの長い年月を重ねてきて、大須観音は地域やそこに住む人々にとってどのような存在であると思われますか。

岡部快圓さん(大須観音貫主)「まず、織田信長の時代には、尾張の中心は清州で、名古屋ではなかったんですね。その後、徳川家康が豊臣秀頼のいる大阪城との戦いに備えて名古屋城を築いて、清州の都市機能をそこへ移したんです。家康の町づくりとして、城下町の周りにまずお寺がいくつか置かれました。そうするとそこに人が集まって門前町ができますね。そうやって、お寺しかなかったところに自然発生的に生まれた町があって、そこに当山(大須観音のこと。当寺という意味)が大須郷から移ってきたんです。名古屋には大きな城下町がありますが、門前町というのは寺院を中心にして、お寺の人や参拝客を相手に発展するので、その「心」というものが城下町とは違いますね。大須は、日常の中に当山やほかの寺院がともにある町です。それから、当山はお寺というよりも書物を守るために移転したということもあるんです。もとは木曽川と長良川の中州にあったので洪水の被害を受けたこともあり、書物を非常に重要と考えていた家康が、水害から守るために現在の地に移しました」

―― そういえば、大須観音では国宝級の書物などを所蔵されていますね。お寺が書物を守るというのはどういうことなんですか。

岡部さん「当山には古くから貴重な書物を所蔵した文庫がありまして、現在は国宝4件、重要文化財37件のほか1万5000点以上の書物を所蔵しています。国宝には、古事記などがあります。古事記というのは日本中にたくさんあるんですが、原本はもう失われているんですね。すべて写本なんです。その中でも、当山の所蔵する古事記は現存する日本最古の写本です」

―― それは貴重な蔵書ですね! 大須観音は何度か火災に遭われていますが、そうした災害からも蔵書を守ったんですね。

岡部さん「そうです。とくに昭和20(1945)年3月19日の大空襲では、本堂や仁王門など境内の多くが消失してしまいました。商店も全部焼けてしまった。もう焼け野原です。それでもこの時、鐘楼と文庫だけは残ったんです。その前にあった明治の大火でも残りましたし、鳥羽の大須にあった頃には大洪水も潜り抜けてきました。今も無事に残っているのは、まさに、ご本尊様の霊験でしょう」

大須観音が所蔵する書物を収めた「大須文庫」のほとんどは、鎌倉時代の初期に真福寺(大須観音のこと)を開山した初代の能信と、二世の信瑜の代に築かれたという。それ以来、後を継いだ歴代の貫主たちによって厳重に守られ、水害や火災のほか、盗難や紛失の被害をも防ぎ、散逸や破損のほとんどない蔵書を今に残す。現在の貫主である岡部さんも、誰に求められようとも「雨の日は文庫を開けない」という決まりなどを厳格に守り続けているという。

貴重な蔵書とともに、ご本尊もまた、度重なる災害を越えてきた。空襲の際には、あらかじめご本尊を鉄筋コンクリートで作られていた文庫に運び込んでいたため、蔵書とともに難を逃れたそうだ。歴代貫主や僧たちの努力ももちろんだが、ご本尊である観世音菩薩のご加護によっても、蔵書は守られてきたのだろう。現在は、境内の奥に旧文庫が残っている。

―― 文庫以外にも、鐘楼が焼け残って現存しているんですね。

岡部さん「はい。ただ、梵鐘は戦争に取られてしまって、ずっとなかったんです。鐘楼というのは、梵鐘を吊るすことでバランスが保たれるように建てられているので、梵鐘がないままだと倒れてしまう危険性があったんですね。それで、昭和41(1966)年に、鐘楼を守るために地元の女性たちが寄進して、梵鐘を作りました。だから『女人梵鐘』というんです。戦争に行ったのが男性で、その間は女性が地域を守っていたからということでね。大須は女性がしっかりしているんですよ」

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